<奈良の建て倒れ>

大阪の食い倒れ,京都の着倒れに対しての比喩。建物や耐久消費財にお金を掛けてしまう気質を表す言葉。

近所で二階建ての木造住宅が二年かけて新築された。現地を見ると鬼瓦や土壁を使用し木材も太く立派なものでした。費用も工期もかかるのに新建材を使わずに伝統を重んじる。都会では職人の確保も不可能です。

<屋根の上に鍾馗(ショウキ)さま>

昔、京都三条の薬屋が魔除けに立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。

<花札の鹿に紅葉(興福寺十三鐘傳説石子詰)>

昔、興福寺の小僧さん達がお堂で習字の勉強をしていた処へ一匹の鹿が庭へ入り小僧さん達の書いた紙をくわえたので、小僧の三作が、習字中に使用していた、文鎮を鹿に向かって投げました。ところがこの一投の文鎮は鹿に命中し、鹿はその場にて倒死しました。当時、春日大社の鹿は神鹿とされ「鹿を殺した者には石詰の刑に処す」との掟があった為、三作は石と瓦で生き埋めになりました。母は、三作の霊をとむらう為に鐘をついて供養しましたが、私の生きているあいだは線香を供えることが出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺しの罪人として誰一人香華を供えて下さる方はないと思い、墓の目印として紅葉の木を植えました。

<大和郡山の金魚>

大河に恵まれない大和平野では、干ばつによる飢饉から逃れるために、2千年以上前から溜め池造成に取り組んでいました。奈良県内に点在するため池は6千といわれています。大和郡山市ではその溜池を利用した金魚の生産高が全国の40%を占めております。

<宿のある場所「尼ヶ辻」の地名>
「尼ヶ辻」という地名は 、興福院(コンブイン:和気清麻呂が開いた弘文院が始まり)という尼寺が尼ヶ辻駅近くの交差点にあったことからとも言われる。寺は1665年法蓮町に移転しているがこの地区の自治会名は今でも 興福院自治会とし旧名を残している。寺が移転してから今年ですでに352年たっている。

 

<陵墓>

宮内庁「皇室典範」による区分では皇族の墓のうち、天皇・皇后・太皇太后・皇太后のものを陵(リョウ・ミササギ)それ以外の皇太子や親王などのものを墓(ハカ・ボ)と呼ぶ。したがって垂仁天皇は「菅原伏見東陵」、聖徳太子は皇太子なので古墳の名前は「磯長墓(シナガノハカ)」です。

 

<チマチョゴリと土蔵>

韓国服チマチョゴリと土蔵板腰壁の比率が同じ?。

奈良はその昔、朝鮮半島から渡来人として多数の人が渡ってきた。そのデザイン感覚が残っているのではないだろうか?・・・私見